4月会長ご法話に寄せて

今月の会長先生のご法話は「朝が大事」です。

「日々感謝で目覚め」

 「春眠(しゅんみん)や慈母(じぼ)の懐(ふところ)にあるごとく」 (佐藤春夫)。春の朝のぬくもりと、心地よい気分が伝わってくる一句です。たがらでしょうか、漢詩に「春眠暁(あかつき)を覚えず」と詠(うた)われ、「朝寝(あさね)」は春の季語になっています。たまにはそういう日があってもいいでしょうが、「朝こそすべて」といわれるくらい朝のありようは大切ですから、年度初めにあたり、一日のスタートである朝の意義をあらためて考えてみたいと思います。

 まさか今月ブログのお役を頂くとは思っていませんでした。 実は今頂いている課題になかなか取り掛かれずにいて、締め切りまであと1か月足らずなのです。「今日は?だから明日やろう」、「いざとなったら集中して出来る」等と毎日自分に言い訳をしながら ダラダラと3週間以上が過ぎてしまっている。そんな時、支部長さんからこのお役を頂きました。拝読させて頂きながら何故、このお役を頂いたのかその意味について考えました。

 「そうか、4月は年度初めなんだ。一区切りついた後のスタート、節目、切り替えの時なんだ。」と改めて気付かされて、ダラダラと日常をやり過ごしたり時間を無駄にしている現状を振り返らせて頂きました。

 まず自分の事から申しあげれば、私はいま、毎朝四時に起床します。人生の先輩である千玄室(せんげんしつ)先生(裏千家大宗匠(うらせんけだいそうしょう))に倣(なら)ってはじめた習慣です。ただ最近では三時ごろに一度、目が覚(さ)めて、四時に設定した時計のアラーム音が鳴る前に自分で目覚まし時計を止めて起きだすことが多いのですが、それも年齢を重ねて時間を有効に使える体質になってきたと受け止めれば、嬉しい変化と言えましょう。

 会長先生は朝四時に目覚ましを、私は五時と五時半の二段回に。しかし、何時に寝ても必ず一時半頃と三時頃に目が覚めてしまいます。目を閉じて五時なるのをじっと待ってるのです。たまには時間が来るまで、熟睡したいと思います。でもご法話に触れて、「そうか、年齢を重ねて時間を有効に使える体質になったと受けとめればいいんや。」と思えると、次の日また一時半に目覚めた時、起きて少しですが課題に取り掛かることが出来ました。

「誕生偈ではじめる一日」

 ここで大切なのは、長く合掌するということよりも、合掌礼拝が神仏に通じており、その敬虔(けいけん)な気持ちがストレスを和(やわ)らげ、自然治癒力(ちゆりょく)など潜在的(せんざいてき)な力を引きだす可能性があることです。まして、朝いちばんにまごころをこめて神仏と向きあう合掌ともなれば、帰依心(きえしん)の深まりとともに、持ち前の活気がより呼び覚まされるのではないでしょうか。 私たちは、そういう合掌を毎朝しているわけです。

 また、「一日は一生の縮図(しゅくず)」ともいわれますが、その意味でいうと、朝の目覚めは誕生の瞬間そのものです。「今日(こんにち)ただいま誕生」。そういう新鮮な気持ちで朝を迎えると、日々新たになり、きのうまでのとらわれを離れた前向きな心で一日をはじめることができるのです。

 私は会長先生のおっしゃる様な新鮮な気持ちで朝を迎えた事があるだろうか…。コロナ禍になって、以前よりも増して御宝前の前に座ってご供養をさせて頂いたり、ゆっくりとご先祖さまと対話する事が無くなりました。朝の御供養はとても大切だとわかっているのに神仏と向き合う事から離れてしまっています。 だからでしょうか、大切な朝から気がたびたび滅入るような事が起こるのは。

すると、やはり仕事をしている時もその事が頭から離れず、一日の大半をそういう状態で過ごしてしまう。自分の思っている以上に心が疲れてしまっているのか、ただただ思考を停止させる為に手のひらの中の別世界(携帯)に入り込んでしまう。「良くないな。」と思いながらも、やるべき事が後回しになる。これって、その事柄(朝の出来事)にとらわれているんですね。「朝の目覚めは誕生の瞬間そのものです」そんな風に考えた事はありませんでした。

 「今日ただいま誕生」

これは心のスイッチを切り替える言葉なんですね。日々老いていくのでは無く、日々新たになる。そういう感覚を私も味わいたい。

これを機に心を込めた合掌と仏様と向き合える自分にならせて頂ける様にスイッチを切り替えて、まずは朝の御供養から始めさせて頂きます。ありがとうございました。

合掌

東近江支部  A

 (太字は会長先生ご法話 佼成4月号より引用)

当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。