「恥じること」は、善く生きること
○人間の基本
同じ「心の鬼」でも、それを一文字で「愧(き)」{忄(りっしんべん)に鬼}と書くと、意味あいがまったく変わってきます。こちらのほうは、むしろ払ってはいけない心、私たちがけっしてなくしてはならない心といえるものです。それは、自分の言動の過(あやま)ちや至らなさに気づいて恥(は)じる心です。
○恥じることで救われる
では、私たちは何に対して「恥じること」が大事なのでしょう。親鸞上人は「自らの罪を恥じる」といわれますが、罪とはどのようなことだと、みなさんは思われますか。
「恥(はじ)を知れ」という言葉を、人を非難(ひなん)するとき、その相手に向かって使う人をときおり見かけますが、この言葉は自分自身に向ける言葉だと思うのです。
わが家の元気な両親は学びの会やサークルに出掛け、生き生きしているのは有り難いのですが、「今度、ここに行くの」と言います。つまり、私に送迎を頼んでいるのです。私はその度に出勤時間を調整するのですが、たび重なると「申し込む前に聞いてくれないのね」「趣味のお出掛けに関しては自分で段取りしてくれませんか」と言ってしまいました。「恥を知れ」とまではいかずとも一瞬にして両親(相手)を非難して言葉にしているのです。会長先生は、
~中略~
私たちは「恥を知る」ことによって、日常生活のなかで知らず識(し)らずに犯している罪から救われるということです。自分を苦しめたり、人を傷つけたりしないですむのです。
と教えて下さいます。自分の言動を振り返り、どれだけ相手に向けた非難を言っているのか意識し、伝え方を学んで自他共に救われる日々を一日でも多く精進して参ります。 合掌
竜王支部 K.Y
(太字は会長先生ご法話2月号より引用)
当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。