6月会長先生ご法話に寄せて

〇人を憎まず、争わず

 「親孝行したいときには親はなし。さればとて石(墓)に布団(ふとん)は着せられぬ」という諺(ことわざ)があります。親が元気なうちに孝行すればよかった、と悔(く)いる心情がありありと感じられて、「ほんとうにそのとおり」とうなずく方も多いことでしょう。ただ、「石に布団は着せられぬ」とはいえ、何もできない・する必要がないということではないと思うのです。
 先月お話ししたとおり、宇宙の誕生にまでつながる壮大な命の歴史のなかで、何一つ欠けることなく結ばれた縁、そして命のバトンリレーによっていまを生きる私たちにとって、「親孝行とは何か」を考えることは、親や先祖をとおして自分の命の根源を見つめ、未来に向けていま、自分に何ができるかを問うことでもあるからです。

 会長先生のご法話を拝読させて頂き、父母の事を思い出させて頂きました。私が十四歳の時、父が胃がんで亡くなり、二十四歳の時に母も乳がんで亡くなりました。母は私が十九歳の時、乳がんの手術をして私は会社を三か月休職し母の看病をさせて頂きました。振り返れば色々なことがよみがえります。母も今年五十回忌をむかえます。義母さんの介護もさせて頂き、今年十七回忌をむかえさせて頂きます。今は両親と義母さんに十分ではありませんが親孝行ができたかなと思いました。ありがとうございました。

〇親不孝という殺生

 貧しい人の救済や治水(ちすい)を行なって、人びとから菩薩(ぼさつ)と敬(うやま)われた行基(ぎょうき)の歌に、「山鳥のほろほろと鳴く声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」があります。亡き父母を慕う気持ちがあふれ、山鳥の鳴き声さえ懐(なつ)かしい父母からの呼びかけに聞こえる……その思いの切なさに胸を突かれる一首です。
 ところが、私たちはときにこうした感傷に浸(ひた)るいっぽうで、ともすると生んでくださった親への感謝を忘れ、容姿(ようし)を嘆(なげ)いたり、思うにまかせない人生を恨んだりしがちです。それはしかし、授かった命に感謝できない親不孝でもあって、曹洞宗(そうとうしゅう)の余語翠巌(よごすいがん)師はそれを「不殺生戒(ふせっしょうかい)をおかすことになる」といわれています。余語師は「天地いっぱいの命」をそのままに生きる私たち、つまり仏性(ぶっしょう)そのものである私たちの人生は、別(わ)け隔(へだ)てなくいずれもすばらしく、意義のない人生も意味のない存在もこの世には一つもないと断言されます。その自分や自分の人生に「是非をつける」ことは、根源の命を顧(かえり)みない殺生、つまり在家の仏教徒が保つべき五戒(ごかい)の一つである不殺生戒をおかすことだというのです。

 早く亡くなった父母に生んでくださった感謝と、先祖様から頂いた命のバトンリレーを欠けることなく、人を育てる菩薩行をさせて頂きます。今回、ブログのお役をいただきありがとうございました。

合掌

竜王支部 N.K

(太字は会長先生ご法話6月号より引用)

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