天地自然のおかげさま
○人間は自然の「破壊者」
いまさらいうまでもありませんが、私たちは自分以外のあらゆるものに生かされています。ことに、太陽や水や空気は、それがなければ人間のみならず命あるものは何一つ生きていけません。すでに、これだけで「天地自然のおかげさま」ということの意味あいは十分に理解できます。
ところが、私たちはそうした天地自然のおかげに対する感謝を忘れがちです。しかも、知性が発達している人間が一番偉いと思い上がり、便利さや快適を求めつづけて地球環境を破壊(はかい)してきました。大自然から見れば、私たち人間は「破壊者」以外の何ものでもないのです。
臨済宗(りんざいしゅう)の鮎川博道(あゆかわはくどう)師は、「おいおい人間さんよ、俺たちゃ長い間、生かされている自分を感謝しながら、みんなでこの地球を大切にしてきたんだ。それを新米のおまえさんたちが、勝手に食い散らかして(中略)俺たちより少しくらい頭がいいからといって、自分勝手はやめてくれ」(大本山妙心寺(みょうしんじ)「法話の窓」より)と。そして鮎川師は、天地自然に感謝してつぎの世代へ美しい地球を引き継ぐことこそ、私たち人類の智慧(ちえ)だと明言するのです。(中略)日本仏教では、山も川も草も木もあらゆる存在(悉有)はすべて同じ仏のいのちのあらわれと見ます。(中略)
人間は、ほんとうに困らないと深く反省しない悪い癖(くせ)がありますが、困る前に一日でも早く、みんながお日さまや空気や水のおかげさまを感じとり、真剣に生き方を見直す必要があると思うのです。
私は生まれた時から携帯が一人一個は必ずあり、小学生で携帯は持ってないと「持ってないの?!」っとびっくりされる環境でした。今最近では、スマホで取引ができる。スマホを無くすと大変なことになる世の中になったのだと家族でも話してました。たしかに最近は自然よりITの方が進化し、技術の方が凄いと賞賛される時代だなっと思いました。TVでも、子供がスマホ依存な為、三日間一緒の仲間と自然に触れて、その間はスマホは一切触らないというそのようなTVをされてて、その子はお母さんに連れられ、無理やりではありましたが、最後には、「楽しかった」と話されていて自然に触れることは人間にはやはり大事なのだと感じました。
○「おかげさま」といえる幸せ
以前、小笠原諸島に行った際、水平線上に昇る朝日や沈む夕日のうつくしさを船上から見て感動し、心洗われると同時に大自然に生かされていることを強く実感した覚えがあります。平生(へいぜい)、庭に咲く花草にふれて、いのちを懸命に生きる姿に感動を覚える人もおられるでしょう。アスファルトの隙間(すきま)に咲くタンポポの健気(けなげ)さから生きる勇気をもらうことがあるのも、いのちの一体感のなせるわざだと思います。ある精神科医は、花や草木に心を寄せて一体化していくと、気持ちが救われ、力がわくことがしばしばあるといっていますが、私たちは精神的にも、また太陽や水や空気などから物理的にも、天地自然の「おかげさま」をたくさん頂戴(ちょうだい)しているのです。
そのことがよく理解できると、人は慎(つつし)み深く生きるようになります。たとえば、お日さまや水のおかげで食卓に並ぶ食べ物は、腹八分目にして無駄(むだ)にせず、いただく際には残さないようにするでしょうし、水などの資源も大切に使う工夫をするはずです。それは、多少の不便・不足や手間暇(てまひま)も、「おかけまさま」の心があれば喜びをもって受け入れられるということです。そして、そのように「おかげさま」と思えるとき、私たちは救われているのです。
心に不平不満や怒りがあると、とても「おかげさま」とは思えませんが、天地自然の摂理(せつり)をかみしめ感謝がわき上がると、仮(かり)に困難のなかでさえ「おかげさま」に気づいて幸せが得られる───心が救われるのです。
そもそも、真理を自覚できる人間として生まれ、いま生かされていること自体が「おかげさま」そのものといえます。本会が設立以来お伝えしてきたその喜びを、これからもみなさんとともに伝え、広めて、みんなの「おかげさま」が響きあう地球を護(まも)ってまいりましょう。
会長先生米寿おめでとうございます。
私もおかげさまで、今年25歳になる年です。小さい時は、足が不自由で、入退院繰り返し、3回手術をし、父と母は、入院中代わり代わりに私の元へ車で片道1時間以上かかる病院まで来てくれてました。おかげさまで、今は回復し、仕事に推し活、楽しい生活を送ってます!人は人生を終えるまで人に迷惑をかける人間だと毎日思います。その分「おかげさま」と思いながらこれからも精進して行けたらなと思います。
合掌 青年部 M.O
(太字は会長先生ご法話3月号より引用)
当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。