出会いが育てる
―敬する心・恥じる心②
〇仏の教えを伝える「出会い」を
「秋の野のくさの葉ごとにおく露(つゆ)をあつめば蓮(はす)の池たたふべし」
~中略~
この歌は法華経(ほけきょう)・化城諭品(けじょうゆほん)の一節「願(ねが)わくは此(こ)の功徳(くどく)を以(もっ)て 普(あまね)く一切(いっさい)に及(およ)ぼし 我等(われら)と衆生(しゅじょう)と 皆共(みなとも)に仏道(ぶつどう)を成(じょう)ぜん」に重ねたもので、露とは仏性(ぶっしょう)のことなのです。
西行が生きた平安時代も今の世の中も根本的に大きな違いはなく、災害や悪疫戦乱や飢饉などで苦しむ人は絶えません。
仏性にめざめた多くの人であふれる蓮池のように美しい世の中にしたいと、いまも、そして世界中のだれもが願っているはずです。
そのために私たちにできることといえば、一人ひとりが自身の仏性を自覚したうえで、苦しむ人に寄り添い、かかわるなかで、みんなが人を敬(けい)して和(わ)する世界をつくるよう努めることです。別言(べつげん)すれば、布教伝道(ふきょうでんどう)という「出会い」が、いまはこれまで以上に求められているということです。
と、会長先生は おっしゃっています。しかし.自身の仏性を自覚することは、私にとても難しいことと感じています。11月のご法話を今一度読み返し、自分を敬する心について会長先生は、合掌印を結んで拝みどおしに拝んでくださっている わが家の仏さまのおかげさまで、私は自らの尊さを自覚しています。とあります。私の中にも、必らず具わっているであろう仏性に仏さまは、ただひたすらに合掌し拝んでくださっていることに気づき感謝と畏れ多い思いで心が震えまた。
私が悩み苦しむ時、そこにはいつも心温かく寄り添ってくださった、サンガの皆さんがいてくださいました。
今日、私がこうしていられるのは、多くのサンガの皆さんや家族の支えのおかげさまです。感謝の心、敬する心を持って、人さまの仏性を拝み布教伝道という出会いをつづけて行こうと思いました。
〇仏性の光り輝く蓮池に
大学三年の夏。当時、通っていた剣道の道場(および師匠のお宅)で二か月間、泊まりこみの修業をすることになったのですが、自ら申し出たのにもかかわらず、一か月もすると稽古(けいこ)と掃除などの用事に疲れ果て、私は逃げ帰ってしまったのです。
会長先生の苦くて有り難い体験を読み、会長先生でも、若い頃には、私と同じように、苦難から逃げたいと思うことがあったことに、失礼ながら率直にとても親近感と安心を覚えました。しかし、私と違うところは、本気で叱って下さった方に深い敬意と感謝を持ちつつ、同時に抱いた「なにくそ」という反発心を、「このままではいけない」という向上をめざす動機づけにされ、心をあらためられたことです。
私だったら、叱られたことにとらわれ、卑屈な受けとり方をしていることでしょう。
出会いというふれあいのなかでこそ、だれにも具わっている敬する心や恥じる心はめざめます。本会の手どりやお導きの修行にも、自他のそうした心を育(はぐく)む大切な意義があるのです。
布教伝導という出会いを通して悩み苦しむ人に手を差しのべ、その出会いを機に仏縁を広げていく役割があることを学びました。まず、私から自身の仏性の自覚に立って幸せを感じられる世界を築こうと誓願し、家庭や地域で、あいさつと思いやりの実践をさせて頂きます。
合掌 総務部K.K
(太字は会長先生ご法話12月号より引用)
当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。