心を耕し、仏を掘り起こす
○バラモンと釈尊の対話
本会が創立六十周年を迎えた年(一九九八年)、私は「躍進」(現「やくしん」/佼成出版社)誌上で次のように述べています。「私も少年のころ、畑を耕(たがや)す手伝いをしました。耕された土と、そうでない土とは相違があります。耕さない土は固くて何も受けつけようとしませんが、よく耕した土はやわらかで、水や肥料(ひりょう)をいっぱい吸収するのです。同様によく耕された心は柔軟(じゅうなん)で、執着(しゅうちゃく)がなく、どんなことでも素直に吸収していけるのです」-このようにお話しし、一人ひとりが「心田(しんでん)を耕す」ことの大切さをお伝えしたのですが、それは、これまで何度も述べてきたように、「スッタニパータ」に収められた釈尊(しゃくそん)の逸話(いつわ)と詩偈(しげ)をもとにしています。
~中略~
この詩偈の背景にあるのは、釈尊ご在世(ざいせ)中のインドなどにおける耕作の様子です。かつては日本においても、農具の犂を家畜(かちく)に引かせて田畑の土を起こす「犂耕(りこう)」が耕作の中心でした。釈尊は、田畑(心)の土をとらえて掘り起こすその犂を智慧にたとえておられますが、牛馬の引く力が犂に伝わって十分に犂(智慧)が働くには、牛と犂とをつなぐ轅という棒による制御(せいぎょ)が欠かせません。詩偈にしたがうと「恥じることが轅」ですから、恥じることによって心に内省という犂先が届き、内省を忘れたときには突棒で犂先にこびりついた土を払うなどして、智慧(犂)が十全(じゅうぜん)に働くようにすると、よく心(田畑)が耕されるのです。
9月のブログのお役にお声をかけていただき有難うございます。落ち着いて佼成を拝読させて頂き、自分の心をみつめる時間をいただけたのかと思います。
最初の「仏を掘り起こす」というお言葉にとても心が惹かれ、会長先生は今月はどんなお言葉をくださるんだろうとワクワクしながら読み進めていきました。
お言葉の中に「耕さない土は固く何も受け付けないが、よく耕された土は柔らかく水や肥料をいっぱい吸収する」と述べられ、「人の心もよく耕された心は柔軟で、執着がなく、どんなことでも素直に吸収していける」のだと。
毎日の生活の中で様々な現象をいただきます。それが時には自分にとって不都合だったりマイナスに見えても、真理から観るとそうではないことも…
そんな時はご指導をいただいて、自分のみえていないまたは気づいていない大切なことを現象を通して教えていただきます。起きている現象の本質的なことが知りたくて。
〇仏教のすべてがここにある
釈尊は、いままさに耕作を行なおうとする人びとに対して、たくみな方便(ほうべん)を用いてわかりやすく、大地を耕すことと同じくらい心に信仰の種を播いて育て、実りを得ることが大切であるとお説きになったのです。仏教学者の増谷文雄(ますたにふみお)氏は、この詩偈をすばらしい対機説法(たいきせっぽう)と讃(たた)えたうえで、ここに「仏教の全貌(ぜんぼう)と本質とが、くまもなく、かつ具体的に」語られていると述べています。信仰の種が心の土壌(どじょう)に落ちれば、憂いなく安穏の境地に至って、さらには「あらゆる苦悩から解き放たれる」というのです。しかも、その手だても含めて、安らぎを求めるすべての人の願いが短い詩偈に凝縮(ぎょうしゅく)されていて、この教説(きょうせつ)にふれた多くの人が生きる希望や前を向く力を得たであろうことが想像できます。
ただ、一度でも心を耕せば苦悩がなくなるのかといえば、そうではないと私は思うのです。繰(く)り返し心を耕し、そのつど自身の仏性(ぶっしょう)を掘り起こすことが大切で、それが安らぎに直結するのではないか―その意味で、この仏性の自覚についても、いま少し考察(こうさつ)を深めてまいりたいと思います。
今月は脇祖さま報恩会やお彼岸会の月でもあります。
信仰に出逢えた感謝の気持ちを持ち、人としてどう生きるべきかを身をもってお示し下さった先達たちやご先祖さまに思いを馳せながら、自らの心田を耕したいと思います。
合掌 教務部 K.M
(太字は会長先生ご法話9月号より引用)
当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。