私たちの人生と「永遠のいのち」
〇人生はメドレーリレー
仏の教えをやさしく、わかりやすく説きつづけられた臨済宗(りんざいしゅう)の松原泰道(まつばらたいどう)師が、
米寿(べいじゅ)の歳(とし)に詠(よ)んだ歌があります。
「八十余年亡母(はは)に手ひかれ、山を越え/川をわたりて今日をめぐまる」。盂蘭盆(うらぼん)にちなんだ講演のなかで、師はこの歌につづけて「おかあさん、ありがとう。この年まで、こんなに丈夫に生かさせていただいてありがとう―」と、お母さまへの思慕(しぼ)と感謝の心情を率直に述べておられます。
盂蘭盆の季節になると、とりわけこのように亡き父母への思いが深まるというのは、来年、この歌を詠まれたときの師と同じ歳を迎える私だけではないと思います。
また、師のご著書にあるつぎの一節も心に残っています。 「人生は、ゴールのないメドレーリレーのようなものです。人間が生きて死ぬとうのは、何億年も続いてきた生命のメドレーリレーの一走者として懸命に走り、次の走者にバトンを手渡すことです」 (『松原泰道の説法人生』佼成出版社)
生命(いのち)あるものは、いつか必ず死を迎えます。そして私たちは、自分の生命が尽 きるそのときを「人生のゴール」と受けとめがちです。ところが松原氏は、人生を「ゴールのないメドレーリレー」だというのです。
死を迎えても、そこが生命のゴールではないとも愛けとれるこの一節に、私は なんともいえない安らぎを覚えます。走る距離も、走り方もそれぞれに違う人生ですが、だれもがみな、大いなるいのちの営(いとな)みのなかの一区間を精いっぱい走るリレーの走者で、生命のバトンはそうして永遠に引き継(つ)がれる。このように受けとめると、爽(さわ)やかな気持ちにさえなります。
ブログのお役に声をかけて頂き、簡単に返事させて頂きましたが、日ごとに何で私やろう と心に重くのしかかってきました。 そんな時、支部の壮年さんの訃報を受け、あまりの突然にびっくりと、ショックで言葉も ありませんでした。
佼成の中で会長先生は、生命の尽きる時が人生のゴールではなく、人生はゴールのないメドレーリレーで生命のバトンは永遠に引き継がれるとお書きくださっています。
お葬式の時に、喪主をつとめられた息子さんを拝見し、壮年さんの生命のバトンは、しっ かりと息子さんに受け継がれたんだなと思わせてもらいました。
自分の頂いている寿命はわかりませんが、ご先祖さまから生命を受け継ぎ次の代に生命を引き継がせていただけていることに感謝をし、自分に与えられた区間を精いっぱい走り続けたいと思います。
〇「永遠のいのち」を生きる
京都大学の総長を務められた平澤興(ひらさわこう)先生は、何億年にも及ぶ生命の営みをより 具体的な生命観(せいめいかん)として示しています。 「死とは、大自然より与えられた生命が、元の大自然にかえり、大自然の一部にかえり、再び大自然の建設に参画(さんかく)する。/これは「無(む)」にかえるのではく、新しい大自然の創造に参加するのである」 (『生きよう 今日も喜んで』致知出版社)。
この言募葉からは、死を迎える寂しさや悲しさはみじんも感じられません。むしろ私たちの生命は、死を境に過去から未来へとつづく大河のような「故郷(ふるさと)」に帰り、大自然に還(かえ)って、「永遠のいのち」を生きつづけるといった壮大なイメージが広がってきます。
多くの人は、やがて死が自分に訪れることを恐れ、不安を募(つの)らせます。自分がこの世からいなくなることなど考えたくもない、という人もいそうです。ただ、釈尊(しゃくそん)が真理を探求された動機も、すべての人を生老病死(しょうろうびょうし)の苦から救いたいとの願いによるものですから、死を避けたいと考えるのは自然な感情ともいえます。
釈尊はしかし、その末に私たち人間がそうした苦しみや悩みを乗り越える法として、無常をはじめとした真理にもとずく四諦(したい)・八正道(はっしょうどう)の教え―だれもが救われる、苦の受けとめ方と実践徳目―を説き、伝えられたのです。現に、芥子(けし)の実のたとえで知られる幼子(おさなご)を亡くしたキサー・ゴータミーは、釈尊に出会って救われたことを「わたしは、八つの実践法よりなる尊(とうと)い道、不死(ふし)に去る[道]を実修(じっしゅう)しました。わたしは、安らぎを現にさとって、真理の鏡を見ました」と告白しています。
さて、この告白で気になるのは「不死]という言葉です。釈尊も「経集(スッタニパータ)」のなかで、心を耕(たがや)すとその人には「不死の実り」がもたされると述べておられますが、「不死」とは何を意味するのでしょうか。現実に死と向きあう私たちが、日々を心おだやかに生きる手がかりの一つとして、次号ではこの「不死」について少し考えてみたいと思います。
「永遠のいのち」を生きるとは、死とは、元の自然にかえり、また、どこかで再び新しい生命として生まれそして、次の未来へと生命をつないで生きつづけるのだと。そう思うと、亡くなられた壮年さんも、どこかでまた、新しい生命として生まれ、生きつづ けて下さるのだと思わせて頂きます。
私もこの年まで、健康で元気において頂き、親に感謝しています。先のことはわかりませんが、一日一日を感謝で過ごし、人様のためにこの身を精いっぱい使わせていただきます。 合掌
甲賀支部 I・Y
(太字は会長先生ご法話7月号より引用)
当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。