「慎み」は、「慈しみ」から
○「慎む」とは思いやること
~中略~
慎み深くあることについて、釈尊(しゃくそん)は「身(み)と言葉を慎み」や「身体、言葉、心を慎むのは善(よ)い行為である」など、先月号の「恥(は)じること」と同様に、その大切さをしばしば述べておられます。私たちはこの言葉を、ともすると一般的な生活規範(きはん)のように受けとめがちですが、良寛さんの歌を見てもわかるように、慎みとは、慈悲と一体のものではないかと私は思うのです。仏教学者であり、曹洞宗(そうとうしゅう)の僧侶でもあった奈良康明(ならやすあき)師によると、釈尊の教えは「すべて『慈悲』というものに根拠(こんきょ)をもって説かれている」といいますから、「慎む」ということも、思いやりの心を深めるものであればこそ、仏の教えとして説かれているのです。
私は、慎むとは、ひかえめにする事と思っていたので慎む=思いやること?でした。頭の硬さを感じつつ、何回も読ませて頂けました。
私は サンガ(同信の仲間)の方にも、地域の方に対しても自然体で思いやりの心で 接し言葉の出し方も考えてきたつもりでした。
でも 自分の苦手な人や、相性の合ない方に対して慎むとはほど遠い、酷い時は、仏頂面になったり 無視したりと恥ずかしいですが、表面だけの言葉をかけている自分に気づかせて頂きました。 相手の方にも、良い所もいっぱいあるのだからと、無理に認め様とする自分があります。
今回 他を思いやって言動を慎み接する事の大切さを教えて頂き、せめて気がつくかぎり意識して、分けへだてなく慈しむ習慣ができる様、努力させて頂きます。
○身近な実践から世界の問題まで
~中略~
建物が大きいからりっぱな教団なのではなくて、また伽藍ができたからそれで教団が成熟したということでもなく、そこに集う同信の仲間一人ひとりが、仏の教えを学んでいつもいきいきとして、謙虚(けんきょ)で慎み深く、それがひいては地域、社会の人びとの心にぬくもりや元気を与える――そのような教団でありつづけることが大事だと伝えたかったのでしょう。
その意味でいえば、本会の「一食(いちじき)を捧(ささ)げる運動」が長くつづけられているのはとても重要なことです。
今年、新しい年を迎えてすぐ、能登の震災に大きな衝撃を受けました。 今もまだ水の出ない地域など、テレビのニュースで流れる映像に胸を痛める毎日です。
三食、食ベられる事、トイレに行きたい時にいける事、毎日温かいお風品に入れる事、1つ1つに感謝するばかりです。今私たちが出来るわずかな一食募金が少しでも被災者の方々に援助できる場所を与えて下さった開祖さまに感謝の心を深めつつ、今後も生きた一食をさせて頂きたいと思っております。
合掌 東近江支部 T.S
(太字は会長先生ご法話3月号より引用)
当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます