愚痴はほどほどに
〇「知」が「病む」と「痴」になる
ものごとを理解し判断する能力としての知性、それを支える知識や知恵、そうした「知(ち)」が「疒(やまいだれ)」に囲まれた状態です。つまり、「知」が「病(やまい)」にかかっているから「愚痴をこぼす」と受けとれるのです。
その病を癒すには何が大切か。私も振り返ると、感謝がないときは、愚痴ばかりこぼしています。職場でも、家庭でも、自分の事は、二の次、相手の事、身の回りの環境の事、特にご法のご縁から遠うのいているときは、自分の事が見えず、まさに、「知」が「痴」にかかって愚痴をこぼしております。でも、教えを聞かせて頂いているとき、お説法を聞かせて頂いているときは、自然と感謝の念が深まり、愚痴をこぼしていない自分があります。
〇愚痴を聴かせてもらう
だからといって愚痴をいっさい口にしてはならないとなると、それもまた窮屈(きゅうくつ)です。(中略)やるせない気持ちで吐(は)く愚痴や弱音は、ときに必要なのかもしれません。それが、やがて「いっても仕方がないことにとらわれるのはやめよう」と自ら気づき、考え、新たな気持ちで前を向く出発点なることもあるのです。
会長先生より、人さまの愚痴を聞かせていただく受け皿のような私たちであることの大切だと教えて頂きました。いつも感謝でいればいいのですが、なかなかそうはいきません。学校や職場で、周りのみんなと同じように愚痴をこぼしている日常です。それがだめでなく、とても大事な、自ら気づき、考え、新たな気持ちで前を向く出発点にすればよいと教えてくださって、とてもうれしく、勇気が湧いてまいりました。そして大事なのが人様の愚痴をきかせていただく受け皿のような私たちになることを今月教えて頂きました。人様のつらい気持ちを聴ききる、「知恵の心」を持てるように、さらなる精進をさせて頂きます。
合掌 総務部 Y.U
(太字は会長先生ご法話 佼成11月号より引用)
今月の会長先生ご法話はこちらからご覧いただけます。